東播

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堀本秀治さん
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堀本秀治さん
大分県の佐伯海軍航空隊に所属していた頃の堀本秀治さん=1943年
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大分県の佐伯海軍航空隊に所属していた頃の堀本秀治さん=1943年

■兵庫県稲美町・堀本秀治さん(98)

 人が死ぬ時いうたら、めちゃくちゃやで。

 俺は海に飛び込んで助かったけど、撃沈された(航空母艦)瑞鶴(ずいかく)に大勢の仲間が取り残され、一緒に沈んだ。何百人も死んだ。ひどいもんや…。

 あの時は、魚雷の直撃を受けたんやろうか、大きい音がして艦全体が揺れた。

 航空整備兵やった俺は倉庫にいたけど、艦内で連絡をやりとりする管が壊れているから、外がどうなっとるか分からん。

 30分ほどして、部下が「静か過ぎます。艦も傾いてきました。一度、見てきます」と言って出ていった。そしたら「負傷者が多くて通路を通るのに困りました。(外部への)扉も開きません」と報告してきた。

 自分で見に行ったら、通路は血を流した兵隊でいっぱい。どう見ても助からない者もいた。上半身が動く者は、俺の体をつかんで、「退艦か」と聞いてきた。

 俺も外に出られなくてどうしようかと思っていたら、「秀治、こっち」と呼ぶ声が聞こえてくる。昭和13(1938)年の阪神大水害で亡くなった母親の声。見上げるとハッチがあって、上って開けたら、うわーっと外の光が入ってきた。

 それで外に出られた。

 瑞鶴は全長257メートル、基準排水量2万5675トン。真珠湾攻撃やマリアナ沖海戦などの激戦でほとんど被害を受けず、「幸運艦」と呼ばれた。1944(昭和19)年10月のレイテ沖海戦で、米軍の艦隊を引き付けるため「おとり」となり、同25日、撃沈された。

 撃沈された年の10月半ばごろやったかな。艦長が総員を甲板に整列させて、「私どもの艦が敵軍を迎え撃つ」と、おとりになることを告げた。そして「命を預けてくれ」と言うた。

 ああ来たかな、と思った。死ぬのは怖いことない。妙に落ち着いとった。

 10月25日に攻撃を受け、母親の声に導かれて甲板に出たら、逃げていないのが、自分を入れて、まだ9人おった。片方の足首から先がない者もおった。

 飛び込む前に服を脱ごうとしているやつがいたから、「何しよんや。服着て泳げ」と言った。裸やったら凍え死んでしまうから。

 そのうちに、「ガターッ」と大きな音がした。艦が傾いて、航空機を上げる昇降機が落ちた音やった。あかんと思って飛び込んだ。

 しばらくすると、艦は船首から持ち上がって、一気に沈んだ。

 7時間くらい海に浮いとったんかな。夜になり、味方の駆逐艦に助けられた。ロープで引き上げられて甲板にいると、前を走る別の駆逐艦から火の手が上がり、撃沈されたのが見えた。そのまま眠ってしまった。

 朝起きたら、同じように助けられたやつは死んでいて、目を覚まさんかった。

 おにぎりをもらって食べた。味は覚えてへんけど、生きとった、と思ったね。

 瑞鶴は10代や20代の若い子が、ようさん乗っとった。沈むのが分かっとる作戦なんか、何で考えたんや。むごい。戦争ほど、あほなもんないわ。(聞き手・斉藤正志)

【ほりもと・ひでじ】1921(大正10)年、神戸市長田区生まれ。43年、広島県の海軍大竹海兵団に入隊。44年から瑞鶴に乗艦した。戦後は旋盤工などとして働き、64年から稲美町の工場で勤務した。

    ◇

 終戦から、間もなく75年となる。戦争では、何が起きたのか。戦争は、何をもたらしたのか。当時を知る人たちの声に、改めて耳を澄ましたい。

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