三田

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舞鶴港
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舞鶴港
南桟橋の復元
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南桟橋の復元
(左)展望台にあるナホトカへの方針盤(右)復元した抑留者の部屋
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(左)展望台にあるナホトカへの方針盤(右)復元した抑留者の部屋
収容所の室内の復元
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収容所の室内の復元
興安丸
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興安丸

 終戦後、旧ソ連で強制労働させられたシベリア抑留を詳しく知りたい。「引き揚げの町」と呼ばれ、ソ連や旧満州から約66万人の引揚者と、遺骨約1万6千柱が帰った舞鶴港(京都府舞鶴市)を訪れた。

    ◇

 まず向かったのは舞鶴港を見下ろす丘陵地にある「舞鶴引揚記念館」。全国から寄贈された約1万6千点の資料を保管する。玄関ホールでは、引き揚げを紹介する映像が流されていた。

 660万人。1945年の終戦で外地に残された軍人、軍属、民間人の数だ。国は速やかに帰国させるため、最大時で18港を引揚港とした。舞鶴は主にソ連の抑留者を受け入れたが、捕虜になった約60万人の解放協議が難航。終戦から1年以上たった46年12月、約846キロ先のナホトカ港から本格的な引き揚げが始まり、58年9月まで13年間で346隻が着いた。抑留期間にソ連で約5万5千人が亡くなったとされる。

 歌謡曲「岸壁の母」のモデルになった端野いせさんが、息子の帰国を待ちこがれて舞鶴港に通い詰めた話も映像で紹介される。

 「岸壁の母は世界中にいました」と学芸員の長嶺睦さん(42)が話す。父母や子ども、きょうだい…。戦争に参加した国の人には誰しも家族がいる。「勝っても負けても亡くした家族は戻らない。無事だった人は『自分だけ生き残ってしまった』と罪悪感を持ち続ける。戦争は、人の心に一生の傷を負わせるんです」

 約1500点の展示資料の中、ユネスコの世界記憶遺産「白樺日誌」には、抑留中の思いがシラカバの皮につづられていた。「幽囚の 身こそ悲しき遺言も あらずて異郷に逝く人多し」。次々と亡くなる戦友を目の当たりにする悲しみはどれほどだろう。

 収容所を再現した部屋に入ると、ひんやりとして抑留中の会話の音声が流れる。「収容所で○○が死んだらしい」「今日は一体何本の木を切り倒すんだろう」…。人形と一緒に板の寝床に寝転ぶと、狭くて硬い。強制労働で運ばされたという重さ35キロの丸太は持ち上げられる気がしなかった。

 かつて「岸壁の母」が通った舞鶴湾の南桟橋が復元されていた。66万人が次々と祖国の地を踏んだ港に当時の熱気はなく、戦争の影だけがひっそりと残る。

 記念館は入館300円、小学生から大学生は150円。午前9時~午後5時。毎月第3木曜は休館。同館TEL0773・68・0836

(山脇未菜美)

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