三田

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杖がないと歩けなくても「自転車に乗ってしまえば大丈夫」と今北さん=三田市
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杖がないと歩けなくても「自転車に乗ってしまえば大丈夫」と今北さん=三田市
旗を掲げて出迎える舞鶴の人々(舞鶴引揚記念館提供)
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旗を掲げて出迎える舞鶴の人々(舞鶴引揚記念館提供)

■人の運命を国が握った 今北初男さん(95)

 1945年の敗戦直後からカラガンダで強制労働させられた今北初男さん(95)。日本の状況は何も知らされずに時を過ごした。

    ◇

 抑留2年目の47年、「誰それが本土に帰ったらしい」といううわさが飛び交った。体調を崩した人が療養所で聞いたという。ただ、中国では共産党と国民党の内戦が激化し、共産党を支援するため戦地に送られるというデマもあった。

 「考えても仕方ないけど、何がほんまか分からへん。いつか帰れるやろ、と言うてる間に4年が過ぎた」

 

 〈国の資料などを見ると、46年5月、日本の度重なる要望を受け、連合国軍総司令部(GHQ)が捕虜解放の協議をソ連と始める。同年12月からの引き揚げは病弱者が先で、抑留は長い人で56年まで続いた〉

 49年8月末、収容所で部屋のまとめ役がソ連側から聞いたとして突然言った。「帰国だ」。再び貨車に押し込まれ、半月後、ソ連極東の軍港・ナホトカに着いて収容所に入れられた。医師や通訳ができるといったソ連に役立つ人材、もしくは社会主義に反する思想を持つとみなされれば逆送される。不安は2日続いた。

 「港に出て、船に『興安丸』と書いてあって日本の船やと分かった。船員さんと話して、一気に気が緩んだわ」

 夕方、海原に出て初めて、ぐっすりと眠れた。

 「やっと帰れる。せやけど、頭の隅には人にどう思われるかいなというのがあったな。捕虜は恥や。戦果を挙げて帰るのが兵隊やのに、負けて大きな顔して帰ってきてもうたなあと」

 一晩寝て甲板に出ると、舞鶴港の桟橋で手を振る人々が見えた。家族の姿はない。まさにその日、母の一周忌をしていると宿舎で聞かされた。3日後に帰宅すると、父と並んだ小学生の妹は誰だか分からず、きょとんとしていた。故郷を出て、7年がたっていた。

 「近所の人に『あの人も、この人も亡くなった』と聞いた。戦死だけやのうて、餓死とか病気とか。食べ物も、薬もなくなってたんやなあ。帰って農業しても数年は(米を役場に収める)『供出』が続いたわ」

 〈インタビューを始めて4カ月になる。今北さんは、戦地をくぐっていないことに引け目を感じていた〉

 「(戦時は訓練ばっかりで)飛行機の飛ぶ音も聞いとらんねん。それから捕虜になって、抵抗する力もなかった。命こそ持って帰ってきたけどな。後になって、ソ連の国境近くに残った(仲間の)部隊が襲撃されていたとか、特攻や原爆でひどい目にあった人がおるとかいう話を聞くとな…」

 空襲で親を亡くした孤児もたくさんいると知った。満州では8万人もの移民者がソ連からの逃亡生活や集団自決で亡くなっていた。

 「(どんな苦難も死も)運命と言うたらそれまでかしらん。せやけど、人をそんなつらい運命に持っていったんは日本の国や。誰が責任取れるっちゅうねん」

 〈今北さんも運命を翻弄されてきた。自由な将来も仲間も戦争に奪われ、それを回避する選択肢もなかった。すごく不条理だ、と思う。でも今北さんが徴兵された時代には、誰も流れを止められなくなっていた〉

 「みんなで考える政治が大事やというのを、負けて初めて分かるねん。黙っていては、当たり前のようにして平和は続かんわ」

 今北さんは結婚後に子ども2人を授かり、今は孫2人、ひ孫3人に恵まれた。夕方、いつものように畑へ向かう。生きながらえたことに、感謝を込めて。(山脇未菜美)

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