神戸

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宵宮でにぎわう十日えびす=柳原蛭子神社
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宵宮でにぎわう十日えびす=柳原蛭子神社
兵庫大仏について説明する雲井雄善住職=能福寺
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兵庫大仏について説明する雲井雄善住職=能福寺
初代兵庫大仏=能福寺
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初代兵庫大仏=能福寺
1950年ごろ見つかった初代兵庫大仏の一部=能福寺
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1950年ごろ見つかった初代兵庫大仏の一部=能福寺
阪神高速柳原インターチェンジの入り口を示す看板=神戸市兵庫区浜崎通2
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阪神高速柳原インターチェンジの入り口を示す看板=神戸市兵庫区浜崎通2

 福笹や竹札を手に毎年約25万人の人出でにぎわう柳原蛭子神社(神戸市兵庫区西柳原町)。本殿裏には、木彫りのタイが飾られ、参拝客は耳が聞こえづらいとされるえびす様に願いが届くよう、ばちでタイをたたき、手を合わせる。商売繁盛や家内安全を願う「十日えびす」が9日、宵えびすで始まった。(千葉翔大、藤原 学)

 ■かつては花街

 「私の親の時代は、この一帯、花街としてにぎわっていたと聞いている。今は1年に1度、えべっさんの時だけ。さびしいかぎりや」。同神社名誉総代の河北文二さん(89)は口を開く。

 「花街?」。現状からは想像もつかない。

 「柳原」と言われて思い浮かぶのは蛭子神社と阪神高速柳原インターチェンジくらい。取材をするまで「やなぎはら」と思っていたが、地元住民に聞くと「やなぎわら」と言う人も多い。希少地名でないことはインターネットで調べると一目瞭然だ。同じ地名は全国に44もある。

 さて、ここ兵庫区には東柳原と西柳原の2町がある。氾濫を繰り返すたび、流路を変えてきた湊川(現・新湊川)が、かつて近くを流れており、川沿いに柳の木が植えられていたことから、その名が付いたと語る人もいる。1931年に始まった神戸市の区制施行では、旧兵庫町のうち、湊川以西は「湊西区」として出発した。

 ■33の寺社が集中

 古都回遊では、柳原かいわいのエリアを、北はJR以南、東は七宮神社から南下する高松線、南は松原線、西は国道2号松原通5丁目交差点と定めたい。特徴的なのは寺社の多さだ。住宅地図で拾ってみるだけでも25の寺、八つの神社が掲載されている。

 「兵庫津は全国有数の港町として栄えた。明治初期には人口は2万人を超え、人も商店も寺社も、まちの中心に集まった」。兵庫大仏で知られる能福寺(同区北逆瀬川町)の雲井雄善住職は説明する。

 高さ11メートル、重さ約60トンの同大仏は、奈良、鎌倉と並び「日本三大仏」と称された。同寺の建立は平安時代だが、「大仏ができたのは明治になってから」と雲井住職。建立には時代背景が大きく影響していた。

 ■消えたランドマーク

 時は152年前にさかのぼる。明治政府の「神仏分離令」(1868年)により、仏教を排除する「廃仏毀釈」の機運が高まり、全国で仏像などが破壊された。崇拝する対象を失った民衆の心は荒れ、治安悪化が深刻さを増した。

 それを危ぐした兵庫の豪商・南條荘兵衛が、仏教の再興を願って91年に建立したのが初代兵庫大仏だ。当時は銅の流通量も少なく、周辺に住む貿易商らの妻が手鏡を寄付するなどしたという。平屋が中心だった市街地で約10メートルの高さを誇る大仏は、「兵庫港に寄港する船の目印でもあった」と雲井住職は話す。

 町のランドマークも太平洋戦争下では容赦なく、「金属類回収令」の標的となった。1944年、ごう音と共に台座から引きずり落とされた。50年ごろ、付近から初代大仏の毛髪「螺髪」などが発見された。現在、同寺に安置されるのは91年に再建された2代目だ。

 「初代の遺構の一部を溶かし、再び練り込んでいる」。こう力を込める雲井住職は続けた。

 「世間の混乱に巻き込まれても、多くの民衆を癒やすため、柔和な表情でこの町を見守り続ける」

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