明石

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1995年2月27日、神戸市東灘区、甲南本通商店街
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1995年2月27日、神戸市東灘区、甲南本通商店街

 神戸市東灘区で新聞配達中に阪神・淡路大震災に遭遇した私は、倒壊した家屋の間を抜けるようにしてアルバイト先の販売店にたどり着きました。

 目の前に広がる光景は、何か巨大なものがまち全体に衝突したかのようでした。ただ、屋根が地面に着くほど崩壊した家屋と、見た目には何の被害もなく立っているマンションが同じ光景の中にあるのは不思議な感覚がしました。

■ 1月17日午前

 販売店で働いていた女性の家へ、同僚と安否確認に行きました。徒歩で十数分のところです。幸い無事でした。

 しかし、道中の住宅やマンションは無残でした。1階がつぶれた店舗や住宅が無数にあり、狭い道路をふさいでいました。鉄筋コンクリートのマンションですら、斜めに倒壊したり、駐車場が押しつぶされて車が大破していたりしました。時折聞こえてくるラジオからは「京都で寺の土塀が崩れた」「大阪で何人がけがをした」など、目の前の光景とはほど遠い情報が流れていました。

 「ここはあまりにも被害が大きくて、状況を伝える手段そのものが破壊されているのではないか」と感じました。

■ 1月17日午後

 東灘区甲南町、魚崎北町周辺を歩いていると、「危ないから今すぐ山側に逃げろ」という話が人づてに伝わってきました。

 海沿いにあるガスタンクが爆発するかもしれないと。この状況なら、ありえる事態だろうと、指示に従いました。

 私が住んでいたのは西岡本3の文化住宅でした。木造2階建て、1K風呂なし、トイレは共同。築30年ほどでしょうか。1階は完全に崩壊し、2階はかろうじて原形をとどめ、つぶれた1階に乗っている状態でした。

 既に文化住宅の惨状をたくさん見ていたので、実際に目の当たりにしても「やっぱりな」というあきらめの感情しかありませんでした。ガス漏れ防止で頑丈に作られているのか、ガス管だけ住宅の崩壊に関係なく2階部分まで自立しているのが印象的でした。

 私の部屋は1階の奥でしたが、荷物を掘り出す方法すらありませんでした。この文化住宅には少なくとも8人が住んでいましたが、私が見に行ったとき、その場には誰もいませんでした。このときは「みんな助かったのかな」と思っていました。

■ 1月17日夜

 やがて日が暮れます。もちろん電気はつきません。水もガスも不通です。しかし、真っ暗闇だったわけではありません。

 避難しようとする車のライトが煌々(こうこう)と光っています。家族でしょうか、5人が乗り、荷物を詰め、窓ガラスが割れたまま走る車もありました。しかし、片側2車線の国道2号は全く進みません。「道を空けろ」と叫び続ける運転手もいました。車内に重篤な人を乗せているようでした。

 私が避難したのは本山南中学校の体育館でした。夜は何百人いたのかわからないくらいぎゅうぎゅう詰めです。3日間ほど、ここで寝泊まりしました。

 寒さをしのげるのはエンジンをかけた車の中だけでした。たき火で暖をとる人が運動場にいました。流れないトイレ、紙の切れたトイレでも、そこでするしかありません。

 新聞配達の仕事は、17日でいったん止まりました。配る新聞が店に来ないというよりも、配る家が倒壊しているか、その家に誰もいないかで、読んでもらう人がいないのです。

 いつも配達で通る細い道が、倒壊した家屋でふさがれています。それでも、18日か19日には無料配布用の新聞が束になって届き始めました。それを、避難所の教室や体育館に配っていきます。避難者にはその新聞を回し読みしてもらいます。

 17日当日は、何かを食べた記憶がありません。2日目になると、新聞社の本社から店の従業員向けの弁当が送られてきました。

 北海道から調達したとみられる鮭イクラ弁当でした。2日くらい何も食べていない避難者がたくさんいる中、豪勢な弁当を食べるのは申し訳ない気持ちでした。(吉本晃司)

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