社説

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 阪神・淡路大震災から17日で25年となる。四半世紀の時の流れの受け止め方は人それぞれに違いない。

 「もうそんなにたったのか」という感慨もあるだろう。当時生まれた赤ちゃんは大人になった。一方ですでに亡くなった被災者もいる。

 多くの人が予想したよりも早く、インフラの再建は進んだ。傷痕が見えにくくなったからか「復興の時期は終わった」との声も聞かれる。

 だが、あの日から止まったままの時間もある。「1・17」は、大切な人の変わらぬ笑顔と、心の中で再会する日でもある。

 さまざまな思いが去来する。確かなのはこの25年、一人一人が震災後の起伏の道を歩んで来たことだ。

 忘れない。伝えたい。その原点はあの日にある。

       ◇

 災害は異なる顔を持つ。阪神・淡路は、都市部を襲った直下型の大地震だった。地震は突然来る。そのことを思い知らされた災害である。

 観測史上初の震度7の激震地が、淡路北部から宝塚まで、約25キロの帯のように連なった。そのような自然の猛威を誰も想定せず、油断や備えの甘さが被害を大きくした。

 直下型では倒壊した建物や家具が命を脅かす。直接死の7割が家屋などの下での窒息や圧死だった。監察医が検案した遺体の9割が「地震から15分間でほぼ即死」とされた。

明暗を分けたもの

 記憶に残る写真がある。

 崩れ落ちた瓦屋根の前に立つ桜の木。幹に掲げられた張り紙には「女性一人 家屋の下にいます」の文字。震災の朝、本紙のカメラマンが芦屋市川西町で撮影した。

 張り紙は、倒壊家屋の隣に住んでいた70代の男性が書いたものだ。

 中年の女性と高齢の母親が自宅で生き埋めになった。男性らは懸命にがれきを取り除き、2階で寝ていた中年女性を助け出した。しかし1階にいた母親には、太いはりが邪魔をしてどうにも到達できない。

 「誰か、早く…」。救出を求める目印として、祈るような気持ちで張り紙を木にくくり付けたという。

 母親は自衛隊員が発見して病院に搬送されたが、死亡が確認された。たまたま借りて住んだ家の耐震性が低かったこと。寝ていた場所の違い。多くの要因が明暗を分けた。

 歳月が流れ、張り紙を書いた男性は4年前に亡くなった。跡地には新しい住宅が建ち、当時と変わらない風景は桜の木だけだろう。

 1枚の写真が、あの場所で何があったかを知る手掛かりといえる。

足元の経験に学ぶ

 芦屋市では5割以上の家屋が全半壊した。復興が進んだ一方、震災前から住所が同じ市民は2割で、大半が入れ替わった。神戸市でも震災を知らない市民が4割を超えた。記憶の共有は年々、難しくなっている。

 風化を避けるには、体験がない人でもわが身に引き寄せて考えられる工夫と努力が必要となる。

 以前、全国の中高生や大学生らが参加した震災学習プロジェクトで、京都の高校生らがこの写真に着目し、現地を訪ねたことがある。

 「埋まった人は助かったのか」。疑問を抱いて聞き取りを重ね、救出された女性を捜し当てた。大阪に住む女性は電話で質問に答え、「母の死に顔を見られなかったのが今も悔しい」と漏らしたという。

 「人が生き埋めになった現実や遺族の苦しみ、人と人のつながりの大切さを知った。将来の災害に備え、僕らに何ができるかを考えたい」。当時、高校生らはそう語っていた。

 写真や被災者の証言など、震災に関する資料は多数保存されている。だがそれだけでは忘れられる恐れがある。活用し、被災を「わがこと」として捉え直す取り組みで、記憶を次代につながねばならない。災害時の人間の姿に目を凝らした学びの機会を増やしたい。

 この島国では多様な天災への備えが不可欠だが、私たちはまず足元の震災と向き合い、何ができるか、何をすべきかを考えよう。いつか必ず来る、次の「あの日」に備えて。

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